
先日のこと。
毎月お朔日に、氏神さまにお参りに行くのですが、イベントがあったので、前日お礼参りに伺いました。
ひとも少なく静かで、気持ちがとても落ち着きました。
だいたい変わらず感謝を申し上げますが、【月の終わりに】お礼を伝えることが、こんなにも気持ちが良いものだとは想像以上でした。
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祈りと、願いは言葉としては似ているようで、まったく異なるものです。
私たちが生きているうち、欲と無縁であることはむずかしいものです。しかし、その欲に気づき、自分の在り方を見直すことはできます。
欲に支配された心はたいへん重たく、苦しみを生み出します。
神頼みに終わるのは、神さまにもたいへん失礼なことで、自分の力で心の整理整頓をできるようにならなければ、ほんとうの幸せはいつまでたっても訪れることはないでしょう。

100人いれば100通りの生き方があり、ある人には行動することが重要であったり、またある人には止まること・充分に考え尽くすことが大事であったりします。
様々な方々とお付き合いさせて頂く中で、皆さまの微細な氣を感じ取りながら、個々人に合うようにヨーガをお伝えさせて頂いておりますが、私だけではどうにもできないことがあることも感じております。
それでも、宇宙全体を感じる時間を持てば、こんなにも広大な世界で、私たちが「出逢う」という奇跡、「語り合える」関係性にある奇跡、ともに何かを「生み出せる」奇跡に恵まれていることは事実です。
それが私たちの生涯における、ある一時の接点だとしても、いきもの同士の合間に起きる化学反応に、希望を持ちたいと思います。
だから、「私だけでどうにもできない・ならない」ことに直面することがあったとしても、それを理解した上で、ベストを尽くしていきたいです。
「全体のなかの一片」として役割を請け負う、といった覚悟です。
今やインスタントに、システム化された中でヨガを知ることは出来るかも知れません。でも、みなさんがどちらに学びに行かれても、結局は「あそこで教えてもらったことに還ってくる」といった確かなものをお伝えしていきたいです。
現代のヨガに失われてしまったone pieceを取り戻して、そもそものヨーガにできるように、私が一助として機能できますように。そして、その思いがエゴにならないように、謙虚でいられますように。
朝霧カタツムリ