「一隅を照らす」という言葉をご存知でしょうか。
天台宗の開祖、最澄の言葉で、「一人ひとりが自分のいる場所を自ら照らせば、それが積み重なって、この世全体が照らされる」という意味だそうです。
私がはじめてヨーガを学び始めた時、そこで出会った先生の一人がこの言葉を大切にしておられました。
そのずっと後になって、比叡山延暦寺をお詣りした時に、この言葉と再会しました。
ヨーガにおいて、「光」と「闇」という言葉で、この世の事象を説明することは多いです。最澄のこの言葉も、ヨーガに通じるところがあります。私自身も、ヨーガを伝える上で、暗い道を照らす一つの灯りのようでありたいと、僭越ながら思っています。
しかし、僧侶やヨーガの先生でなくても、誰かにとっての灯りになることはできるんじゃないでしょうか。慈悲の心があれば。
慈悲の心は、「そうありたい」と強く願えば持てるものではなく、自分にも他者にも思いやりや赦しの気持ちを持てば、自ずと湧いてくるようなものでしょう。
「お互いさま」という、当たり前のようで大切にできていないことを、どれだけ大事なものとできるかですね。
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先述したヨーガの先生が、よく口にされていたのが、"Inner-Body Bright"(内なる光)で、自分の内側の光に、はっきりとした意識を向けたこともなかった当時の私にとっては新鮮で、その言葉を耳にする度、「特別なもの」に触れに行くような気持ちがしたものです。
ただ、どんな人でもそうであるように、ニンゲンとしての不完全さはあるもので、その先生がどんな人とでもうまくお付き合いができていたかと言えば、そうではなかったような気がします。
本当か嘘かわからない噂話に、がっかりしている生徒もいましたが、私の中では結論付けるようなこともありませんでした。理想と現実の狭間にいる、不器用なニンゲンであったとしても、内なる光に向いていこうと、されていたのだと思うのです。
もちろん、私も同じです。今この場所までやって来るのに、綺麗ごとばかりではありませんでした。ネガティブなことから、なかなか離れられない苦しみに悩まされていた時期もあります。
人生には良いと思えることも、そう思えないこともありますよね。そのすべてが学びです。起きた事象をどのように捉えることができるかで、「次」の行動が変わります。そんな風に思えるようになったのは、紛れもない日々の実践のおかげです。
まずは自分を整えること。それが基盤です。そして、遠くばかり見ないで、あなたのすぐそばにある大切なものを守りましょう。
それだけで、私たちは一隅を照らす光になれるでしょう。
朝霧カタツムリ
(写真:昔からお気に入りの場所から見る景色)