日々日々

 

この藪椿を母から譲り受けたのは、今から20年以上前のこと。

 

椿よりも幼き子どもたちに、そして病の父に、多くの時間とエネルギーを注いでいたあの頃は、ただ庭にある植物の一つでしかありませんでした。

 

しかし、天に父を送り、子ども達がそれぞれの道を歩むようになって、以前よりはずっと椿の一鉢にも、気を向けられるようになりました。

 

「気を向ける」とは大したもので、今年は初めて、よくぞここまで、と感動するほど沢山の花が咲きました。

 

そして、それは、意気込んだとて「成らない」ものであるとも感じています。その存在を常に常に意識するというよりは、日々いろんなことがありつつも、以前より少し生まれた「心のゆとり」が生み出した結果なのでしょう。

 

椿の鉢が目に留まった時に起きる、椿とのちょっとしたやり取りの積み重ねが、ある日カタチとなって現れるんですね。

 

日々日々、流れゆく中でも、一貫して在る「自分の想い」が具現化するものです。今ある現実は、自分が創り出しているものとよく言われますが、本当にそうだと思います。

 

すぐに結果を欲しがるのではなく、何にもなさそうで、つまらないような時でも、意識を何に使うのか、その都度自分に尋ね、時に修正し、今に留まって「行いを成す」ことの繰り返し。

 

だからこそ、「花ひらく」というご褒美はしみじみと嬉しいのです。

 

 

朝霧カタツムリ