知覧にて

 

幾つになっても、まだまだ知らないことがたくさんあります。

 

鹿児島の知覧特攻平和会館を訪れて、そう思いました。

 

第二次世界大戦下、知覧飛行場から、当時17歳から32歳の未来あるはずの青年たちが、爆撃機に乗って、沖縄海上の米軍艦めがけて飛び立っていきました。そして、439人の若き命が失われたというのです。

 (全特攻戦死者1036名のうち、半数近くが知覧基地から出撃)

この零戦は、昭和20年5月鹿児島の手打港沖に海没していたものを、当時の知覧町が昭和55年6月に引き揚げたもの。機体は35年間海中にあったそうです。

 


 

広島平和記念資料館に訪れる人は多いと思うのですが、ぜひ知覧へも行ってみて頂きたいです。こちらの平和会館には、特攻隊員の一人一人の顔写真が壁一面に並べられています。お名前、年齢、出身地、所属していた隊などの情報も添えられていました。

 

17、20、28、19……その年齢の若さに、そして彼らの表情に、なんとも言えない思いが致しました。その時、彼らは確かに生きて存在していた、という現実味がダイレクトに伝わってくるのです。

 

私にも26歳、29歳の息子がおりますので、母親としての感情が強く働きました。館内には、彼らが出撃前に家族や恋人に宛てた手紙も閲覧できるようになっています。その殆どが「お母さん」宛てのものでした。

 

我が身のことのように胸に迫るものがあり、涙なしにはいられませんでした。この場に居ると、日本も戦争をしていたんだという現実がありありと感じられました。

 

しかし、一日を平穏無事に過ごせる状態に身を置かせてもらっていると、また遠く離れたことのように感じてしまいますね。忘れてはいけないことなのに。

 

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この時分は、戦争勝利のため、日本のため、家族のために、自らの命を役立てんとして、身を投じるということが美学となっていたのです。

 

実際、爆弾が不発に終わったり、戦闘機の不良によって、帰還した特攻兵は、生きて帰ったことを恥と思い、生きづらさを感じたといいます。

 

平和のために、「今」を生きている私たちの意識をどう働かせていけば良いのか、改めて深く考えさせて頂きました。

 

 

知覧飛行場から飛び立ったあと、開聞岳の上空を沖縄へ向かったそうです。開聞岳は別の名を薩摩富士と呼ばれています。帰ることのない空路……どんな思いでこの景色をあとにしたのでしょう。

 

 

開聞岳の上空を見上げるように、二体の像が佇んでいました。海に面して「生死の扉」と呼ばれるオブジェがありましたが、私は恐怖を感じました。そして、とても悲しかったです。この場ではただ静かに死者の魂に手を合わせることしかできません。

 

 

知覧は空襲にも遭いました。この地に暮らした人たちも同じように戦ったのです。。。今では美しい茶畑が拡がっています。


 

現在上映中の「あの花の咲く丘で君とまた出会えたら」は、知覧特攻隊を思わせる内容です。若い世代の方でも興味が持てるようなストーリーになっていました。

 

こちらの↓を押せば、ネットで知覧特攻平和会館のことを知ることができます。

(知覧特攻平和会館はご遺族の心情にもじゅうぶんに配慮したうえで、平和を伝える場として運営されています)