二兆もの

 

30余年ぶりに、福井県の永平寺にお参りしてきました。

 

私の実家は曹洞宗なのですが、永平寺はその大元となるお寺です。

 

初めて訪れたときは、そういう認識を持っていませんでした。旅で訪れたひとつのお寺に過ぎませんでした。

 

しかし、(当時)女人禁制とはっきり書かれた敷地内を、修行僧が無言のまま、早足で目的に向かって歩く様は印象的で、無知のまま訪れた若者にとっても「他のお寺とは違う緊迫感」を感じたものでした。

 

訪れたのが、とても寒い時期だったので、他者も私も、その場にいる人々の吐く息が白かったので、なお一層張り詰めたように思ったのかも知れません。

 

若い時は、お盆にご先祖様に手を合わせることはしても、さほど深い思考はなく、心はもっと外側に向いていました。しかし、歳を重ね、身内を亡くし、友人を亡くし、人生の痛みや哀しみを経験するようになると、今はすべてが我が事のようです。

 

もともと賑やかで、行列を作るような場所は好きではなかったけれど、近年、神社仏閣を訪れることがより好きになりました。

 

私自身、一つの宗派に肩入れすることはなく、「祈る」という気持ちが起きるのであれば、どこの神社でもお寺でも、こだわりはありません。要は気持ちが一番で、「こうでなければならない」はないのです。

 

ヨーガをするようになって、どこに行ってもどこにいても、「祈り」の中では境目なくひとつの世界を感じますが、特に曹洞宗のような禅の教えはヨーガにとても近いように感じます。これはやはり、幼き頃からの影響を少なからず受けているのかも知れません。

 

大広間の外廊下を通りかかった時、

 

「私たちのいのちには、二兆ものご先祖様のいのちが流れているそうです。だから、私たちはみな親戚ですね」とご住職が檀家の方々にお話しておられたのを耳にして、私が普段みなさんにお伝えしていることと、同じようなことでしたので、安心いたしました。

 

この観音様は「一葉観音」というお名前です。永平寺の門のところで、池を前にして、お座りになられていました。そのお姿があまりにも美しかったので、写真を撮らせて頂きました。

 

ここで、禅の名言「日々是好日(にちにちこれこうにち)」をご紹介します。

 

映画のタイトルにもなり、よく知られるようになったこの言葉は「毎日が素晴らしいかけがえのない日々である」という意味です。「素晴らしい」というのは「充実した」という意味があり、「その日その日の行いに、後悔を伴わないように生きなさい」という緊張感のある言葉なのだそうです。

 

「どれほど辛く苦しい日であっても、それを乗り越えなければなりません。今日を良い日にするためには、今できることをやるしかないのです」と、説明書きにありましたので添えておきます。「日本人として心が豊かになる仏事とおつとめ 曹洞宗」(青志社)より

 

この努力は、少しは「楽」になれるための、前向きな修練ですね。「楽にならなければならない」と執着するものではありません。

 

そして、出家をしなくても、今いる場所でできる練習がヨーガだと言えるでしょう。

 

 

朝霧カタツムリ