場を清めるために、私は日本で作られたお香を好んで使っています。
お香の火を消すとき、空いている手で扇ぎますが、それはお仏壇の前で拝むときの作法として身についたことです。
口は生ものなどを食べるため、生臭く不浄のものとされるからです。
でも、ふと「私たちの吐く息は本当に穢れているのだろうか?」という考えがアタマをよぎりました。
作法として、これからも手で扇いで火を消すけれど、「私の息は穢れてなどいない」と思えました。何故なら、神さま仏さまは、私たちの吸う息も吐く息も愛おしく思ってくれるはずだからです。
こんなことでさえ、立ち止まって、そう思うのは、ハートオブヨーガを学んできたからです。
ヨーガを探究していくと、いろんな訳し方があるのですが、「神への献身」というフレーズを耳にすることになります。この言葉を文字通り遂行してしまうと、私たちが自分のすべてを投げうってしまう危険性があります。
「無私」という言葉も同じくです。その昔、自称真面目な私は、そのまま「無私」の道を突き進むところでした。けれど、神さま仏さまは、私たちを犠牲にすることを喜ぶはずはありません。
与えられたこのいのちを大切にすることだけで、本当は充分です。でも、もし愛を持って何かを行えるなら、誰かのための役に立てると良いですね。「過ぎる」ことは、自分も誰かのことも結局は大切にできないからです。
ヨーガは宗教も無宗教も関係なく、すべての人々に適応できる包括的なものです。私自身特別な宗教は持ちません。私とオットの実家の宗派も違いますが、ご先祖さまに感謝する気持ちで手を合わせています。そして、氏神さまや、ご縁ある神社には喜んでお参りしています。
人知を超えた大いなるものは確かに存在します。それは目に見えないので、ニンゲンが想像力を働かせ、いろんな神さま仏さまのカタチを創り出し、具象化しているのです。でも、すべての源はひとつです。
それは遠くに行かなくても、すぐそばにあるものの中にも感じることが出来ます。
ほら、目の前の葉っぱや雫にも、神さま仏さまを見ることが出来るのです。なんて美しいのでしょう。
そして、私たちの中にも天分が注がれているのです。ヨーガをすると、あなたの呼吸が大切なことを教えてくれていることに気づくでしょう。
あなたの呼吸こそが、いちばんの先生なのです。