ヨーガとタントラ no.2

 

 *** ヨーガとの出逢い

 

いのちにはパワーがあります。状況に追い詰められた私はちゃんと反応することが出来、人生でいちばん大きな行動を起こしました。

 

とにかく、「真の健康」を誰かに伝えられる人になりたかった……。意を決して、いくつかの教室を訪れましたが、どれもしっくりきませんでした。理由はふたつ。「こころに響くものがなかった」そして、「指導者の態度」です。

 

しかし、あるスタジオで体験したヨーガに、まるで雷に打たれような衝撃を受けました。それも、最後の屍(しかばね)のポーズのときに。屍のポーズは、あれやこれやと身体を動かした後、すべてを休ませて、マットに身体を委ねるものです。

 

恩師の「最後は大地にこの身を還していくんですよ」というたった一言に、瞬時にいのちが反応し、ぶわっと涙が溢れ出て、言葉にできない感情に包まれました。帰り際、時間をとって、先生がじゅうぶんに話を聞いてくれたことも、私のこころに染みました。

 

まだ、何かを語れるほどヨーガを知らないのに、「ヨーガってこういうものなんだ」ということを、ダイレクトに受け取った驚くべき体験でした。それは、きっと私の中に痛みや哀しみがあったからこそ、感じることが出来たのだと、今となっては説明することができます。

 

あの日の、駅から家までの帰り道、目にする風景がぜんぜん違って見えました。「このビルは3階建てだったのか」「あそこにあんなお店あったっけ」……たった、そんなこと。でも、私は「ずっと下を向いて歩いていたんだ」ということに気づいたのでした。

 

その当時、何らかパート勤めをしていたとは思うのですが、あまりに忙しすぎて、どの仕事をしていた時期だったかあまり記憶がありません。家事、育児、父に纏わるあれこれ、地域に住んでいれば、自治会のことも子供会のこともありました。いずれにせよ、そんなに稼ぎもない私が自分のために指導者養成講座に大きなお金を使うことにはためらいがありました。しかも、本当に指導者になれるかの確証もないのに。しかし、私のこころの火はもうすでに点いてしまっていました。思い切って、夫に打ち明けたとき、彼は快く応援してくれました。それは、いつもそばにいて、私の想いを知っていたからこそのことでした。

 

指導者養成講座で、私はたくさんの生徒の中でも年齢が上のほうでした。家族への感謝と、もう後がないような気負いが私にはあって、それこそ、ものすごいエネルギーを注ぎ込んで学びました。

 

あの頃は「知ろうとする」「理解しようとする」そういう時期でした。しかし、ヨーガの教えは、机上のものではない、多大な気づきを私にもたらしてくれました。幼虫から蛹、そして蝶へと変身していくように、私の精神は変容していきました。

 

そして、ありがたいことにそのスタジオで講師として働けることになり、地域でも「教えてほしい」という人たちに恵まれて、朝霧カタツムリYogaを開くことになったのでした。

 

・・・・・・

 

最終的に、父は施設と病院の行ったり来たりが多くなり、自発的なコミュニケーションが取れなくなっていました。私たちは父のいるところに、よく会いに行きました。だいたいは父の爪を切ったり、髭を剃ったりしながら、母と話をしていましたが、父はちゃんと聞いていたのかも知れません。

 

ある時、父とふたりになったとき、「お父さん、私ヨーガの先生になろうと思ってるねん。どう思う?」と話しかけたとき、それまで閉じていた目を開いて、「うん」と発語したのでした。それが、私の記憶にある、父の言葉の聞き納め。私がヨーガを伝える原点は、父とのことがあったからなのです。

 

(続く)