ヨーガとタントラ no.1

 

「すべての生命に、太古から連綿と受け継がれた、いのちの紡ぎが存在している」

 

そんな壮大なことを、現世に生きながら、少しはリアルに私に感じさせてくれたのがヨーガです。

 

3月はじめの日曜日、心の師であるJ.Brown先生の講座に参加しました。今回のテーマは「ヨーガとタントラ」。

 

これはヨーガを「リフレッシュのための体操」にするか、「人生の道を歩いていくための本来のヨーガ」にするのかという、とても重要な内容です。

 

「ヨーガを楽しむ」というだけに留まらず、「ヨーガの道を探究」していくと、いつか「タントラ」という言葉に出逢うでしょう。もし、ネットで「タントラ」と検索しても、つかみどころのない説明に余計に困惑して、探究をあきらめてしまうかも知れません。かく言う私も、その定義を「誰もがわかるように」言語化するのは難しく、「タントラ」をアタマで考えること自体に無理があるような気がしています。

 

ヨーガを自分自身の「個人的ないのちの体験」として、感じることを積み重ねた先に、マットの外の「自分の人生」との接点に気づき、その交わりが少しずつ「生き方」全体に拡がるようなものだからです。

 

今回、タントラについて、講座の記録よりも、私個人の実体験をここに記すことの方がわかりやすいのではないかと思うに至り、ためらいながらも、オープンにしていくこととします。

 

*** ヨーガと出逢うまでの道のり

 

私はどちらかというと、繊細で多感な子どもでした。屈託なく遊んでいることも勿論ありますが、常にもうひとりの自分が「今ここで振舞っている自らの行い」を観察しているような。「考えるのが嫌なのに、考えてしまう」アタマの中にたくさん詰まった思考に疲れているような子どもだったのです。

 

なので、今思い返すと、図書館に通って、絵本や童話の自由な世界に浸るのが好きでした。もしくは、自分だけの世界を持つために、どこかに基地を作ったり、校区外でも自転車で小さな旅に出かけて遊んでいました。自然にバランスを取ろうとしていたのでしょうね。

 

飢餓や戦争があるわけでもなく、幸せな時代に生まれて、だんだんと世の中に合わせることもうまくなり、学生時代もOL時代も無難に過ごし、夫と結婚をし家庭を持ちました。

 

強い疑問も持つことなく、ちゃんと幸せで、ある程度のところまで「ただ生きる」ことの中にいたのです。

 

人生の転機は30歳を少し過ぎた頃。父がアルツハイマー病だということが判明し、そこから「ただ生きる」が赦されなくなっていきました。

 

父が亡くなるまでの10年と少しのことは、到底ここに書ききれるものではありませんが、一言で言えば、「壮絶」な経験でした。仕事人間で、決してマイホームパパではなかったけれど、娘にとても優しかった父。その父が病のせいで変わっていく様子を感傷的に嘆くよりも、もっと現実的な厳しさがありとあらゆる形で私たち家族を襲ってきました。

 

まだ若い私のまわりに、親の介護に直面している人はおらず、また当時、病名が世に知れるようになり始めた頃で、いかに残酷な病であるかがドラマや映画で放映されていました。それらが世に印象付けた「特別感」は、人々の「恐怖」と「不安」をただ煽るもの。私たちがポジティブにまわりの人へオープンにする気にもなれず、快復を見込めない病に向き合う生活を続けることは、ずんと重たいものを背負ったまま歩くようなものでした。

 

そのうえ、私は「良い娘」を徹底して遂行してしまいました。誰もそれを私に強いたわけではありません。しかし、父のこの症状は病のせいで、父のせいではない。だから、私は怒ってはいけない。父が穏やかに過ごせるように最善を尽くさなきゃいけない。私が感情を出しても一つも良いことはない。母だって哀しむ。感情を出すことで、私はバランスを崩してしまうかもしれない。だったら、今起きている現実に冷静に対処するほうが賢明だ、という風に。

 

「良い娘」病は、「良い親」「良い友人」病へ伝染しました。内側に在るネガティブを認めてやらずに、なかったことにして、外に出してやることを禁じて、私は破綻したのでした。針で突いたら、すぐ割れて水が溢れ出る水風船のように、私の中にはいつも涙がぱんぱんに詰まっていて、身体は悲鳴を上げ、夜見る夢はろくな夢ではありませんでした。

 

そんな状態でしたから、ゆとりをもって子どもたちに接するなんて全くできていませんでした。今なら、もっと違う愛し方をしたであろうにと思い返し、自分を責めていました。言葉というのは、なんと限界のあることでしょう。きっと、どんなひとの悲しみも苦しみも喜びもその表現の枠に収まることはないと思っています。

 

しかし、幸いなことに、夫はいつも変わらず、私の一番の理解者でいてくれました。そして、本当のことを話せる友だちも数人できました。家から通えるエクササイズダンスの教室に通い始め(父が通所を始めたので)、心身ともに健康を取り戻すことが出来ました。

 

夢もできました。そのエクササイズダンスの先生になること。私も誰かを勇気づけることができればという想いがハートの真ん中に芽生えました。けれども、そこで、すべてのひとに道が開かれているわけではないと知ることとなります。ひとの表向きの態度と裏側に隠された本音に傷つきました。私がなぜその夢を持つようになったのか動機を打ち明けていた友人が反対の岸にいたことがしばらく人間不信の海に落ちることのきっかけとなりました。

 

ここでは、ダメなんだ。じゃあ、どこ。

 

それが、ヨーガの扉をひらくきっかけに繋がっていったのでした。

 

(続く)