世間一般的に、「ヨガを習っている」と誰かに話すとき、ヨガは書道やフラワーアレンジメントのように、ひとつの「習い事」のように捉えられているでしょう。
健康のために何かを始めたいけれど、激しい運動は難しいし、ヨガなら良さそうと思ったら、私たちはスマホを片手に「〇〇市でヨガ」などと検索しますね。だいたいはそのようにして、ヨガの体験に行ってみるでしょう。
ところが、現代ではヨガもビジネス化され、商品のようにサービスとして売られており、数多くのヨガから自分に合うものを探すのがとても難しくなっています。
変にスピリチュアル過ぎて違和感を感じたり、メジャーな看板に惹かれてスタジオに入会しても、インストラクターの一方的な誘導についていけなかったり……。
あなたがもし「ヨガって思っていたのと違うなあ」と感じるなら、それは本当のヨーガに出逢っていないと言えるでしょう。あなたの心身の感覚のほうが合っているのです。
ヨーガを始めるきっかけは何でもいいのです。「肩こりや腰痛を改善したい」「ダイエットになるかしら」など、なんでも。
けれども、もしあなたが本当のヨーガに出逢うことができたなら、最初のきっかけのことはいつの間にか忘れて、「どうして、ヨーガをすると、こんなにも落ち着くんだろう」と内側に拡がる静けさに、心の目を向けることになるでしょう。
あなたに合ったヨーガに出逢うことができればしあわせですね。しかし、それは至難の業かも知れません。ですから、もしヨーガを始めて、違和感を感じるようなことがあったら、別の教室に行くことをお勧めします。先生に義理立てをする必要はありません。
本当に良い先生はヨーガに生きることを決めてはいても、あまり声高にヨーガ、ヨーガと言わないかも知れません。実はあなたのすぐそばにいて、名乗らなければ気づかないぐらい、平凡な暮らしの中に溶け込んでいるかも知れません。
ヨーガの真髄を学んだ先生は、「他の人たちより一段高い場所にいて、教えを授けよう」という態度をとるはずもありません。ヨーガがそうさせないのですから。
あなたと同じように朝起きて、ご飯を作り、洗濯やそうじをこなし、夜寝るまで、まわりの人たちと関わりながら、人生のバランスをとろうとしているごく普通の人のはずです。けれどもヨーガによって、自分を整える術を身に着けているので、生きる上での自分自身の役割に気づいていたり、そのための努力や挑戦をして一生懸命生きている人が本当に良い先生なのです。
私はこれまでにたくさんの素晴らしい先生とそう思えない方々に出逢ってきました。しかし、そう思えない方々も良い先生です。私が彼らのような振る舞いをしないように教えてくれたのです。
私の愛読書、Mark Whitwell先生の「ヨーガの真髄」(産調出版)のなかに、「指導者とは」(P.104 ~ 106)というセクションがあります。既に何かの指導に当たっている方々、そして指導を受け取っている皆さまにぜひ読んで、ご自身の状況と照らし合わせて頂きたく思います。
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(本文より一部抜粋)
「指導者には、何も特別な点などありません。我々は皆、同じ状況を分け合っているのです。こういう力関係が生まれないように気を付けるのは、指導者側の責任です。師弟の関係は、自然で対等なもののはずなのです」
「生徒は、何か助けになるものがそこに在るはずだと信じて、指導者のもとにやってきているのです。その信頼の気持ちを利用するのではなく、それぞれの生徒にふさわしい、本当に役立つことを教えるのが指導者の責任です」
「私はあなたのために、ここにいるよ」と示し、お互いの助けとなるように心を開いて話を聞き合うのです。お互いを理解していく中で、何が問題なのかを見極め、その問題から解放される道を探し、前向きな姿勢をとれるようにするのです。友人の助けを得たことで、ぼんやりとしていたことが明らかになり、自然なままの自由な気持ちになれるのです。何よりあなたの助けとなるのは、苦しみを経験し、それを乗り越え、その経験を分かち合ってくれる、ごく普通の友人です」
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先生のこれらの言葉はわたしの深いところに在ります。
せっかくヨーガに出逢ったのに、ヨーガに傷つけられる人たちを見たくない、と私は思っています。
あなたの幸せを祈って…
(写真はオットの実家までの道。この週末、黙々とこの道掃除をして過ごしました。枯葉や土の中には無数の菌や虫が存在しているようでした。どんなに微細な世界にも「生」があり「死」がありますね)
朝霧カタツムリ